絵本「吉江の町を築いた、松平昌親」
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最終更新日:2024年2月12日
鯖江近松生誕説について
2016年 三好修一郎福井大学名誉教授の調査で家臣たちは、近松が生まれた1653年以前に吉江に入って、城下町を整備していたことが明らかになりました。これが「鯖江近松生誕説」です。それでは、ご覧ください。
吉江の町を築いた、松平昌親
吉江の生みの親、松平昌親
1640年、松平昌親は福井城下で生まれました。
父は福井藩の四代藩主忠昌、祖父は福井藩初代藩主、結城秀康(徳川家康の次男)でした。
つまり、昌親は徳川家康のひ孫になるわけです。
1655年、15歳の時に吉江藩主となった昌親は、47名の家臣とともに、吉江に入りました。
「小江戸」と呼ばれた吉江
吉江に入った昌親は、積極的にまちづくりに取り組みました。
新しく農地を作ったり、織物職人や鍛冶屋を集めたりするなど、農業や産業が盛んになる政治を行いました。
その結果、吉江藩は丹生郡の政治経済の中心地として栄え、「小江戸」(江戸のように栄えたまちという意味)と呼ばれるほどになりました。
福井藩を立て直した名君、昌親
1674年、昌親は福井藩の六代藩主にもなりました。
一度、甥の綱昌に七代藩主の座を譲って隠居をしましたが、
1686年、再び八代藩主となり、名を
吉品の政治は着実に成果を上げ、福井藩の窮地を救いました。
その成功には、苦労してまちづくりを行った吉江での経験が生かされていたといわれています。
昌親と近松門左衛門
昌親とともに吉江に入った47名の家臣の中に、杉森信義という武士がいて、信義には治郎吉という子どもがいました。
後に近松門左衛門となる人物です。
信義は昌親の養育係だったといわれており、治郎吉と昌親の関係も深かったと考えられています。
補足
三好修一郎福井大学名誉教授の調査で、近松の父である杉森信義を含む家臣たちは、昌親が入部する以前に吉江に入っていて城下町を整備していたことが明らかになっています。
信義はその後、吉江藩を辞め、一家で京都に移住することになりますが、しばらくの間は、春慶寺で暮らしていたようです。
それは昌親の心配りによるものと考えられ、そこにも杉森家との深い関わりを見ることができます。
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