土屋得所(1814-1867)・寛之(1845-1906)
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最終更新日:2017年3月24日
土屋寛之
土屋家は、
江戸時代の日本では、天然痘は庶民の間で最も恐れられていた悪性の伝染病で、3~4年ごとに流行し、患者の3人に1人が死亡するという恐ろしい病気でした。当時は、天然痘が流行しても、神社・仏閣に祈ったり、まじないや経験・薬草に頼る民間療法的な治療法しかなく、多くの蘭法医は天然痘の治療には種痘法を導入する以外に方法はないと考えていました。
日本でも18世紀後半頃には種痘法が移入されていましたが、全国的に広がることはありませんでした。しかし、嘉永2年(1849)、長崎に痘苗が到着すると、福井藩の藩医であった笠原良策(白翁)がこれを京都へ、さらに福井に持ち帰り、同年11月、福井で初めて種痘が実施されました。この後、痘苗は府中(武生)・鯖江・大野に伝えられ、加賀や越中にも広がっていきました。こうして日本全国に痘苗が普及していったのです。
福井藩に種痘法が伝わると、鯖江藩では土屋仲宅がいち早くその分苗を受け、領内での普及を試みましたが、仲宅は嘉永3年に病死し、その遺志は次代の得所に引き継がれました。得所は江戸の伊東玄朴に西洋医学を学び、嘉永元年に帰藩していました。得所は「天然痘は、痘苗を接種すればきっと予防できる」と説いて回りましたが、種痘法を受け入れる人々は少なく、その普及はなかなか進みませんでした。そこで、得所は子の寛之に痘苗の接種を行い、西洋医学が安全であることを証明しようとしました。このような努力の結果、安政4年(1857)には土屋得所が「種痘主裁」(種痘の担当役人)に任命され、鯖江藩内での種痘が軌道に乗り始めたのです。
その後、土屋寛之は、文久元年(1861)に藩命により江戸に留学、幕府の種痘館兼医学所で洋学を研究しました。慶応3年(1867)には家督を相続し、翌4年には長崎の精得館に入り、長崎藩医学校の校長となります。明治維新後の明治14年(1881)には鯖江に帰郷し、同24年に鯖江興病院(土屋病院の前身)を創立しました。
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