矢代 操(1852-1891)
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最終更新日:2017年3月24日
鯖江に生まれた男の子
鯖江藩の公用日記の嘉永5年(1852)6月20日条に、鯖江藩士松本伝吾からの届として「妻只今出産、男子出生仕候(鯖江藩士松本家に一人の男の子が生まれた)」という記事があります。
松本家の三男として生まれた少年は「美太(よしふと/みた)」という名前がつけられました。美太がどのような幼少年時代を過ごしていたのか、具体的なことはわかりませんが、9才ごろに藩校進徳館に入学し、ここで漢籍の読み方や武術の鍛錬を受けていたと思われます。
文久3年(1862年)3月には、藩校で武芸吟味を受けています。武芸吟味というのは藩校での公的な試験のことで、この時美太が受験したのは槍術3段、その後、槍術5段、「詩経」や「礼記らいき」・「小学」の試験を受けています。成績優秀であった美太は、慶応2年(1866年)2月になると藩校進徳館の教官を命ぜられました。
そして明治2年(1869年)8月、美太は同じ鯖江藩士矢代家の養子に迎えられ、同年10月10日に家督を相続、矢代家7代目当主になりました。
ここで矢代家の住宅について述べておきます。「鯖江町実測図」(鯖江市まなべの館)によれば矢代家は「上小路二十五-ハ」に位置していました。その場所を確認しておくと、現在の屋形町2のところで、面積は25歩余でした。
なお、婚姻の時期は明らかではありませんが、美太は同じ鯖江藩士の中村雄治の娘(まさ子)と結婚しており、この時に「操」と名乗っているようです。
明治法律学校の創設
明治法律学校設立広告
明治法律学校の校舎(『図録明治大学百年』)
明治3年7月、
廃藩時に4万石であった鯖江藩では、操が選抜され、現在の東京大学の前身・大学南校で学問を修めました。その後、司法省学校へと進み、フランス法律学の進学幅広い知識を身につけた操は、学生時代に出会った旧鳥取藩出身の岸本辰雄、旧天童藩(山形県)出身の宮城浩蔵と共に、明治14年(1881)1月に近代法学のパイオニアと称された明治法律学校の開校にこぎつけました。
その後、学校運営だけでなく、司法省官僚として多忙を極めた操は体調を崩し、40歳に満たない若さで病のため亡くなりました。しかし、明治法律学校は明治大学へと成長し、今も多くの優秀な若者を輩出し続けています。
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