波多野 景之
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最終更新日:2017年3月24日
親鸞聖人を助けた豪族
波多野
当時、親鸞は天台宗の比叡山延暦寺で念仏修行に励んでいましたが、「専修念仏」を唱える法然に出会い、その弟子となります。彼らの教えは「仏を信じ、ただ念仏を唱えるだけで、誰でも極楽浄土に行ける」という分かりやすいもので、これまで天皇家や貴族など一部の人々の宗教であった仏教を、武士や庶民にまで広めました。しかし、この専修念仏が貴族にまで受け入れられていくと、それまで貴族から経済的な支援を受けていた他の宗派からの迫害を受けることになります。
承元元年(1207)、ついに専修念仏の禁止令が出され、法然の弟子のうち4人が死罪、7人が流罪となりました。法然も讃岐国へ、親鸞は越後国にそれぞれ流罪となりました。波多野景之が親鸞と出会ったのはまさにこの時でした。
景之は、北陸道沿いの上野ヶ原と呼ばれていた鯖江周辺に勢力を持っていた豪族でしたが、北陸道を北上して越後に護送される親鸞一行が、休憩所として景之の別荘を利用しました。このとき景之は親鸞の教えに触れ、弟子となって出家し「空然」と名前も変えたのです。景之は親鸞が越後に去った後も、別荘を念仏の道場として開放し、布教に努めました。これが現在の
親鸞が罪を許されて京都に戻ったのは嘉禎元年(1235)でしたが、跡継ぎがいなかった景之は、親鸞の第5子である益方を養子にと懇願しました。親鸞はこれを承諾し、当時17歳であった益方は鯖江に下り「道性」と名を改めたのです。そして、景之は上野別堂が手狭になったため、自分の屋敷地を新しい寺院の土地として提供しました。これが弘安2年(1279)に完成した後の誠照寺で、以後、鯖江の町は誠照寺の門前町として発展していくのです。
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